労働事件法:労働者に有利な「推定」規定と訴訟リスク

労働事件法:労働者に有利な「推定」規定と訴訟リスク

台湾へのビジネス展開は、親日的な土壌や地理的な利便性から多くの日本企業にとって魅力的な選択肢です。しかし近年、台湾の法務・労務環境は2020年1月1日施行の労働事件法によって劇的な変化を遂げました。この法律は従来の民事訴訟の枠組みを大きく変更し、労働訴訟における使用者と労働者の力学を根底から覆すものです。かつて台湾の労働訴訟は労働者にとって立証のハードルが高いものでしたが、新法は迅速・専門・円滑な解決を掲げ、実質的に労働者の訴訟障害を取り除きました。

特に日本企業の経営者や法務担当者が認識すべきは、単なる手続きの変更にとどまらない点です。実体法である労働基準法の適用結果さえも左右する強力な推定規定を含んでいます。本記事では、日本法とは根本的に異なる労働者有利な推定のメカニズムと、日本企業の敗訴要因となり得る調停先行主義の実務的リスクについて、最新の判例に基づき詳説します。

台湾労働法制のパラダイムシフト

労働事件法がもたらした最大の変化は、労働紛争における構造的な不平等の是正です。企業側が証拠を偏在させているという前提に立ち、労働者が訴訟を起こしやすく、かつ勝ちやすい環境が整備されました。具体的には、各地方裁判所に労働専門法廷が設置され、労働法の専門知識を持つ裁判官が審理を担当します。従来の一般民事訴訟で見られたビジネス慣行への配慮や温情的な判断は期待できず、法令の厳格な適用が徹底されています。

また、労働者の訴訟費用や強制執行費用の一部免除、労働組合による集団訴訟の提起が可能になるなど、金銭的・制度的なハードルが極限まで下げられました。日本企業は、ひとたび労使紛争が発生すれば、これまで以上に高い確率で法廷闘争に巻き込まれ、厳しい審理に晒されるリスクを負います。

台湾労働事件法第38条「労働時間の推定」が日本企業に与える影響

台湾労働事件法第38条「労働時間の推定」が日本企業に与える影響

日本企業が台湾で最も警戒すべき法的リスクは、労働事件法第38条に規定された労働時間の推定です。出勤記録に記載された時間は、すべて使用者の同意を得て職務を執行していたものと推定されます。日本の民事訴訟法では、残業代を請求する労働者側がその時間に業務を行っていたことや会社の指示があったことを証明しなければなりません。しかし台湾の労働事件法はこの原則を逆転させました。労働者が出勤記録を提出し、そこに長時間滞留している事実があれば、裁判所は自動的にその全時間を労働時間とみなします

企業側には反証の責任が課されます。その滞留時間が休憩や私用であったこと、あるいは業務を行っていたとしても会社の指示に反するものであったことを、客観的な証拠をもって証明しなければなりません。過去の特定の日の従業員の行動について、仕事をしていなかったことを事後的に証明することは実務上極めて困難です。

多くの日本企業は就業規則に残業は事前申請・承認制とすると定めることでリスク管理を行っていますが、台湾の最新の裁判例では形式的な抗弁は通用しなくなっています。出勤記録と申請された労働時間に乖離がある場合、企業は管理権者として直ちに労働者に理由を確認し、記録を更正するか退去を促すべきとされています。これを怠ると、裁判所や労働検査において「会社が残業を黙認した」と評価されるリスクがあります(最高行政法院106年判字第541号等参照)。

単に就業規則に残業禁止の規定があるだけでは不十分です。実際に無断残業に対して懲戒や指導を行った記録がなければ、制度が形骸化しているとみなされ、推定を覆すことはできません。

台湾労働事件法第37条「賃金の推定」による人件費増大リスク

残業代の時間数だけでなく、計算単価に関しても労働者有利な規定が存在します。労働事件法第37条は、労働者が会社から受け取った金銭は、原則としてすべて労働の対価である賃金と推定するものです。台湾においても日本と同様、基本給に加えて様々な手当を支給する企業が少なくありません。これらが賃金と認定されると、残業代の計算基礎に含まれるため時間単価が跳ね上がります。さらに退職金や社会保険料の算定基礎も増大します。

従来は、ある手当が賃金であることを労働者が証明する必要がありました。しかし第37条により立証責任が転換されました。企業側がこれは恩恵的な給付である、あるいは会社の利益配分であり労働対価ではないと主張する場合、その性質を証明できなければすべて賃金として扱われます。名称にかかわらず実態が重視されるため、一律定額で支給されている手当などは、実質的な基本給の一部とみなされるリスクが高まっています。

台湾労働調停と日本労働審判の決定的な違い

台湾労働調停と日本労働審判の決定的な違い

紛争解決の手続き面においても、日本と台湾では決定的な違いがあります。日本の労働審判と台湾の労働調停は似た名称ですが、制度設計は大きく異なります。

項目日本「労働審判」台湾「労働調停」
位置づけ原則として訴訟とは別手続原則として提訴前の義務的段階
構成員裁判官1名+審判員2名裁判官1名+調停委員2名(労使代表)
担当裁判官訴訟移行時に交代する同じ裁判官が訴訟も担当する
証拠の効力審判での陳述は訴訟に引き継がれない原則調停中の口頭の陳述・譲歩は原則として訴訟に引き継がれない(労働事件法第30条)。ただし、書面で合意した訴訟標的・証拠等の事項は例外的に拘束力を持つ

最大の違いは担当裁判官の継続性にあります。日本では労働審判で調停が不成立となり通常訴訟へ移行する場合、担当裁判官が交代するため審理は一旦リセットされます。しかし台湾では、原則として調停を担当した裁判官がそのまま本案訴訟を担当します。調停段階で裁判官が抱いた心証が、そのまま判決に直結することを意味します。

企業側にとって、調停を単なる話し合いの場と捉えて安易に臨むことは致命的です。第1回の調停期日が実質的な天王山であり、この段階で第38条の推定を覆すだけの反証資料を提出できなければ、その後の逆転は極めて困難になります。

台湾進出日本企業に求められる実務的防衛策

以上の法的環境を踏まえ、台湾に進出する日本企業は、従来の性善説に基づいた労務管理から脱却し、証拠に基づいた厳格な管理体制へと移行する必要があります。まず、就業規則と雇用契約書の抜本的な見直しが不可欠です。給与項目については、支給要件と法的性質を明確に定義し、契約書に明記する必要があります。特に恩恵的な給付については、誤解の余地がないよう記述を精査すべきです。

次に、勤怠管理システムの活用による労働時間の可視化と即時更正の徹底です。PCのログと入退室記録を突合し、乖離がある場合には理由を従業員本人に入力させる仕組みを導入することが有効です。万が一の訴訟において、滞留時間は業務時間ではなかったという有力な反証資料を確保することができます。また、現地管理職への教育も急務です。部下が残業しているのを見て見ぬふりをする黙認は、指揮命令があったとみなされる決定的な要因となります。退社時刻にはPCを強制シャットダウンする、あるいは上司が責任を持って退社を促すといった運用を徹底することが、会社を守る防波堤となります。

まとめ

台湾の労働事件法は、労働者保護において世界的に見ても極めて手厚い制度設計となっています。特に第38条の労働時間推定規定は、準備なき企業に対して自動的に敗北を宣告するに等しい強力な法的効果を持っています。日本流の阿吽の呼吸は通用せず、記録こそが真実という冷徹な原則が支配する世界です。しかし、このリスクは適切な法務戦略と労務管理システムの構築によってコントロール可能です。法律のメカニズムを正しく理解し、就業規則の整備と運用の厳格化を行うことが、台湾市場での持続的な成長には不可欠です。

モノリス法律事務所は、IT・ベンチャー企業の法務に特化した専門性と、台湾法務に対応可能な体制を有しています。提携する台湾の椽智商務科技法律事務所と共に、日台の法制度の差異を熟知したクロスボーダー・チームが、貴社の労務コンプライアンス体制の構築から、万が一の紛争解決までを強力にサポートいたします。

監修

河瀬 季

Toki Kawase

IT企業経営の経験を持つエンジニア出身の弁護士。東大院修了後、モノリス法律事務所を開設。上場企業からスタートアップまで顧問弁護士やCLOとして経営を支援する。特に台湾法務に精通し、専門チームを率いて現地法人設立から労務、知財戦略分野で日本企業の台湾進出を多角的にサポートしている。

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